神功皇后元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、
稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られた。
稚日女尊は神代の昔、機殿で神服を織っておられました。
稚日女尊は国民の生活の豊になる様、一般の方は基より各企業、
団体様の更なる繁栄とご健康また諸々の災いがなく
家庭生活をお守り下さるご神徳があり広く信仰されております。
新羅からの客人に当社で醸造した神酒を振舞っていたことが伝えられている。
その由縁から毎年神酒を醸造し、新羅の客人が来朝するたびに邪気を祓う為、生田の地で醸された神酒を振舞った。
新羅の客人の罪穢れを祓い心身共に清々しくさせ、心を和ませるといった朝貢外交以上に平和外交上重要な役目を担っていた。
当初は砂山に鎮座していた。延暦18年(西暦799年)に洪水で布引の渓流が氾濫し、砂山西端が崩壊し、
社殿が傾斜する被害が及んだため、生田村の刀禰七太夫なる者がご神体を背負い7、8日間鎮座地を探し巡り、
生田の森に至った時、突然背負ったご神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。
これはご神意であろうとその場所安置した。
大同元年(西暦806年)朝廷より当社の為にお供えする家、世話をする家、守る家である神戸44戸を頂いたとあり、
この「かんべ」が「こんべ」となり現在の「こうべ」となったと伝わっています。
戦前より結婚式を行っている当社では宮城道雄師作曲の「むすびの神曲」という曲が三三九度の際に奏されます。
この曲は我が国初めての夫婦神である伊弉諾、
伊弉冊の2神が結婚の際に読まれた歌と素戔嗚尊の婚姻の歌を歌詞として奉奏しております。
神功皇后元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られた。
文学史にもたびたび登場する「生田の森」また、昭和13年の神戸大水害や昭和20年の神戸大空襲。そして平成7年の阪神淡路大震災など、幾度の戦災、災害を乗り越え、氏子や崇敬者の協力によって復興していった「蘇りの社」を散策してみませんか?
生田大神様の御神徳を仰ぎ、祭典を通して敬神の念と我が国の伝統文化を養い社会に貢献する事を旨に、平成19年に発足しました。会員相互の親睦「ふれあい」を大事にしております。また毎年6月に定例総会、秋には日帰りで研修旅行を行っております。