- 稚日女尊
文学史にもたびたび登場する「生田の森」また、昭和13年の神戸大水害や昭和20年の神戸大空襲。
そして平成7年の阪神淡路大震災など、幾度の戦災、災害を乗り越え、
氏子や崇敬者の協力によって復興していった「蘇りの社」を散策してみませんか?
平敦盛が深く愛した「敦盛の萩」、梶原源太景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」、「梶原の井」、
武藏坊弁慶が源義経の代理として当社に参拝した際に奉納したとされる「弁慶の竹」など、源平ゆかりの史跡があります。
生田神社の境内北側には鎮守の森が広がっており「生田の森」として親しまれています。
平安時代の『枕草子』に「森は大あらきの森、信太の森、生田の森」をはじめ様々な書物に記されています。
特に源平合戦の戦場になったことは有名で寿永三年(1184)2月には平知盛を大将とする平家軍が生田の森に陣を構え、一の谷から生田の森へかけて一帯が戦場となるなど、歴史的に由緒のある森です。
拾遺和歌集を始め、順徳院百首、夫木和歌抄などに多く「生田の池」の詠歌が載せられており、当時より名だたる名勝として知られた池です。
源平合戦の際、梶原勢の「生田の森の二度の魁」と言われた時に、梶原源太景季が、この梅の一枝を手折って箙に挿し、挺身奮戦したことによってこの名が起こったと伝えられています。
「かがみの井」とも云われ、壽永の昔(800年前)源平生田の森の合戦の折、梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる。
別説では景季がこの井の水を掬った時、咲き盛った箙のうめの花影が映ったとの伝もある。
一の谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛が愛でたとされる萩。
敦盛の死後にその遺子がたまたまこの萩の木陰に休み、夢で亡父敦盛に出会ったと言われている。
武蔵坊弁慶が源義経の代わりに平家打倒と源氏繁栄を祈念して竹を奉納したと言われている。
この梅の花の清香遠く八丁に薫るというので、名付けられた。
信州飯田の城主堀親義が領地より珍しい此の梅を社頭に寄進したものです。
この鳥居は江戸時代初期に建立され、安政元年(1853年)の大地震で支柱を残して崩壊してしまった。
爾来、支柱が道路脇にあって「生田の折鳥居」と名付けられ、「交通安全に御利益あり」として信仰されたが、以後生田の森に移転され、森の中に鎮まっている。
料理に携わる人達の魂の籠った庖丁に感謝すると共に、食文化の向上を願い、皇太子殿下御成婚・第61回神宮式年遷宮の記念事業として神戸市内の料理食品関係者によって建立された、全国でも珍しい塚である。
神功皇后元年(西暦201年)三韓外征の帰途、今の神戸港にて船が進まなくなったために神占を行ったところ、稚日女尊が現れ、「私は活田長峡国に居りたい」と申されたので、海上五十狭茅という者を神主として祀られた。
文学史にもたびたび登場する「生田の森」また、昭和13年の神戸大水害や昭和20年の神戸大空襲。そして平成7年の阪神淡路大震災など、幾度の戦災、災害を乗り越え、氏子や崇敬者の協力によって復興していった「蘇りの社」を散策してみませんか?
生田大神様の御神徳を仰ぎ、祭典を通して敬神の念と我が国の伝統文化を養い社会に貢献する事を旨に、平成19年に発足しました。会員相互の親睦「ふれあい」を大事にしております。また毎年6月に定例総会、秋には日帰りで研修旅行を行っております。